鹿沼聡美の人生 ①0〜15歳

幼少期 

母方の実家の隣の家で長女として生まれる。

 母方では、初孫、父方では初の女の子とのことで、親戚一同から可愛がられて育つ。幼稚園の頃は、運動よりも折り紙、粘土、お絵かき、そして小さな虫を捕まえたり動物と触れ合うのが好きだった。きっかけは忘れたけど、幼稚園の頃からピアノを習い始めた。

小学生の頃

 小学校に入ってからは、急に持ち物ひとつでも特別がいいのに「みんなと一緒」を求められることや、「みんなと同じようにできること」を求められることに言葉にできない不満を持っていたし、苦しかった。

興味のないことは、忘れてしまうわたしは、植物への水やりはできなくて先生からよく怒られていたし、勉強は比較的できる方だったが、とにかく苦手だったのが「数字の暗記」。かけ算九九がいつになっても覚えられなくて、ずっと残って練習するものの、皆と同じスピードではとても覚えられない。「とにかく覚えなさい」が苦痛で仕方なかった。だって、興味がないのだから。その後も、歴史などで年号が覚えられなくて、これは高校生まで苦しんだ。でも、それを両親に相談することはできなかった。


 
 忘れ物もとても多くて、そんな自分はダメだと思っていたから、いつもこっそり貸してもらったり、どうしようもない時は、母に電話して持って来てもらっていた。
 
朝早く起きて、両親を起こすと喜ばれるので、それが日課になった。本は大好きで、大人っぽく見られたくて、漢字を読めないうちから読んでいた推理小説にハマる。 最初に読んだのは赤川次郎、その後は星新一など、同じ作者の作品を端からひたすら読んでいった。
 
 幼稚園の頃からピアノを習っていたことで、音楽の先生からは特別扱いされる。どうしても参加して欲しいと先生に誘われ、マーチングバンドにも途中から参加。炎天下での練習は辛いものの、期待されているからと頑張れた
 

 特に、母に「頑張っている姿を見て欲しい」という気持ちがとても強く、必死で練習して臨んだマーチングバンドの競技会に母が用事で来れなくなってしまって、お風呂で一人、隠れて泣いていたのを今でも覚えている。
 
 小学校低学年の頃に、父は何度も入退院や検査をして、原因不明の難病や肝臓、腎臓の病気をずっと治療していた。両親とも大変なのがわかっていたから、「迷惑をかけたくない」という気持ちが常にあった。辛い時、助けて欲しい時ほど話すことができず、その後も辛い時ほどギリギリにならないと両親には頼れない自分がずっといた。

 弟は私と反対で勉強があまりできる方ではなく、いつも勉強しなさい、と言われたり、怒られたりしていた。弟が少年野球を始めたことで、土日はいつも弟の野球。両親がそれにかかりきりになっていたことは、仕方ないと思いつつも辛かった。私はいつからか弟が羨ましくて、弟のように両親から注目されたいと思っていた。
 

中学生の頃

 中学に入ると、学年での成績が発表されるようになる。初回のテストで学年で10位以内に入っていたのが嬉しくて、両親に伝えたら、やっぱりとても喜んでくれた。

そこからはひたすら良い成績をとるために勉強をがんばるようになる。授業そのものを真面目に受けて、あとはテストの前にひたすら勉強をすれば、良い点数は取れる。どうやって良い点数を取るかを考えて行動をしていた。

 そんな中、「ガリ勉は嫌い」と、もともと仲の良かった友人からバカにされ、嫌がらせをされたのをきっかけに、頑張っている様子を見せないようにしながら、勉強をしていた。テスト勉強しているかどうか聞かれても、していない、と答えていた。そこから密かに1位を目指すものの、1位にはなれなかった。ずっと優等生で、勉強もでき、素行もどこまでも真面目だった。

仲良くなる友達はいたけれども、距離感を上手く図れないでいた。仲良くなりたいけれども、女の子同士でよくある「ヤキモチ」や「一緒に行動する」「共感を求められる」というのが煩わしかった。うまく嘘がつけないのだ

 たとえば、「○○かっこいいよね」と同意を求められても、わたしがそう思っていなければ「そうだよねー」とは言えない。「○○ちゃん、マジでキモいよね!」と皆が言っていて、半分いじめのようなことがあっても、いじめには加わらないまでも、その子と仲良くするほどの勇気もなかった。
 
 嘘はつきたくない。でも心を許して、本当のことを言えば、嫌がられる。だからといって、相手に合わせるのは苦しい。
そのため、本当の意味で心を許せる友人はほとんどいなかった。どっちつかずのコウモリとして生きることを望みながらもそれは、なんとも居心地が悪かった。今思えば、わたしが心を開いていなかっただけだったけれど、あの頃はどこか虚しい気持ちを抱えていた。

 そう、わたしはあの頃から自分の立ち位置が決まらなくて、それを誰かのせいにして怯えて生きていた。ただただ、嫌われること、傷つくことが怖かった。恋愛も同じ。傷つくのが怖くて勇気を出さないまま終わっていた。

 中学2年の頃、臨時の英語の教師になんとなく嫌われていることはわかっていたが、学年で2位の成績だったのに、通知表が5段階中4の評価だったので、初めて抗議をした。

 だが、「あなたより英単語の練習を頑張っていた生徒がいたから」と言われて、言い返せなくて、これも悔しくてずっと泣いていた。その様子を見て、わたしの話を聞いて、母が学校に電話をしてくれたのを思い出した。そう、両親はいつも私の味方だった。
 
頑張っているのを見せたら友人に嫌われるのに、頑張っているのを見せないと、先生から嫌われる。
 
どうして良いかわからないから、頑張らないことが怖いから、また頑張るしかなかったけれど、「がんばっても報われない」という想いをずっと抱えていた。
 
部活動では、自分だけ学校の予算で新しい楽器が買ってもらえない、という経験をしたが、「気にしていないふり」をしながら、淡々と取り組んでいた。

授業を真面目に受けていたこともあって、受験をしなくても、推薦で進学校に入ることができた。ただ、高校受験の結果がわかりまでの間、今思えば驚くほど「ピリピリ」としていたわたしに、両親も相当心配をしていた。
 
 あの頃わたしは「ピリピリ」というより、「イライラ」していたんだ。きっと「こんなにわたしは大変なんだよ。頑張ってるんだよ。辛いんだよ。」と言えないから態度で伝えたかったんだと思う。
 
そう、迷惑をかけたくない、心配させたくない、と思いながら、本当は迷惑をかけたくて、心配してほしくて仕方なかったんだ。
  
つづく

 

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