鹿沼聡美の人生 ②16〜22歳

高校生の頃

高校生になると、「部活」というやりがいができる。
 
初めて触るヴィオラという楽器が楽しくて、うまくなりたくて必死で練習をしていた。
 
人間関係は色々あるものの、ヴィオラパートは人に恵まれていて、楽しく過ごすことができた。

初めて、後輩や同級生から「頼られる」という経験もして、充実していた。
仲間」と自分の「居場所」ができたように感じていた。

泣いてしまうような感動も、仲間とのやりとりを通じて何度も経験した。
 
同時に、学校の勉強についていくのが大変で、学習塾にも通いだすが、受験期になると夏期講習や模擬テストなど月謝が高くなり、お弁当はつくってもらっても夕飯などもコンビニや外食で食べて塾通いになるため、とにかくお金がかかった。
 
母が短期的に夜もパートをしたりしながら、なんとかしてわたしがやりたいようにできるようにサポートしてくれていたが、成績は中学の時ほど思うようにあげられなかった。
 
塾に通うこと、わたしがお金を使うことは、両親を苦しめることだと思っていたが、良い成績を取らないと愛されないと思っていた私は、そうするしかなかった。

だから、部活が終わってからは、成績と自分の価値が連動しているから毎日必死だったし、とにかく辛かった。

おそらく、肌荒れが本格的にひどくなったのはこの時期だったと思う。皮膚科に行っても何も改善しなくて、大学に行く頃には皮膚科で買ったコンシーラーを塗りたくっていた。背中にもひっきりなしに吹き出物ができていた。両親もとても心配してくれたが、強い薬を使っても、高い石鹸を使っても、どうにも改善しなかった。自分のからだと顔を鏡で見るのが嫌いだった。

良い成績をとるために勉強をしていたので、今思うと本当に楽しかったのは受験で使わない「倫理」の授業と、ひとのからだの仕組みがわかる「生物」の授業だけだった。

中学生の頃から自宅にあったレシピ本を使ってお菓子作りにハマっていたことがあったが、そのゆとりすらなくなっていた。

その頃から、将来「何になりたい?」「何がしたい?」と聞かれても思い浮かばず、高校生の頃の作文では、「大学に行って夢をさがしたい」と書いていた。

学んで視野が広がれば、いつかは「本当にやりたいこと」が見つかるのではないかと思ったのだ。

わたしの住んでいた田舎では、「地元の国公立大学に行って、地元の教員になる」というのが最大のエリートコースと言われていた。

進学校の基準は「国公立大学に何名合格したか」だったから、その道をあゆむことが学校からも求められていることをわかっていたが、少なくとも中高の同級生を見て来て、彼らや自分と「教師」として向き合うことは自分にはとてもできないと思ったし、なにより「自分のことを理解してくれない教師」にひどく憤りを感じることの方が多かった。

「国公立大学を受けないなんて非国民だ」と暗に言われているように感じる環境で、わたしは東京の私大への推薦入学を希望した。

内申点が良かったこともあり、その時の担任からは、
「お前がこの大学の推薦を受けることで、推薦じゃないと受からない他の生徒の道を閉ざすことになるかもしれないんだぞ?」とまで言われた。

それでも我が家には「浪人」をするような余裕はゼロだったし、「滑り止め」をいくつも受けるような費用なんてなかった。だからといって、何が何でも国公立大に一発合格するほどの自信も気力もなかったし、この頃はすでにこころもからだもギリギリだった。

東京で一人暮らしを始めるのに資金も必要だったが、わたしが両親にその大学を受けたいと話したところ、埼玉に住む母の親友がわたしを下宿させてくれることになったのだ。

両親の助けと、たったひとりわたしの選択を応援してくれた高校の国語の先生、そして寄り添ってくれた友人や塾の先生たちの存在もあって、わたしは東京の私大の法学部を受け、無事に合格した。

この時、「人の心理」にも興味があったが、その頃誰かから「それでは食べていけない」と言われて、目指すのをやめた記憶がある。

大学生の頃

私学は学費が高く、奨学金をダブルで借りて、母の知り合いの家に下宿させてもらって大学に通う。
大学の勉強は予想より大変だったが、高校生の頃の要領で勉強をすれば、テストはなんとかこなすことができた。

入学した法律学科の勉強は高校の受験のための勉強よりずっと楽しくて、民法も刑法も好きだった。
「生活に密着した法律」が好きだったように感じる。皆が退屈そうにしている授業もわたしにとっては苦ではなかった。
 
それまでよりも心を許せる友人にも出会うが、後の親友から私の方に壁があったと言われたことがある。その頃は意味がわからなかったが、今思えば友人にも心を開かないようにしていた。
心を開かない方が、深入りしない方が、わかってもらえなかったとき、裏切られた時に傷つかなくて済むからだ。

本当のことを言うと嫌われると思っていたわたしは、人と深く関わることが怖かった。

それでも、今でも忘れられないのはそんな中で仲良くなった友人に、
「あの子がさとちゃん、わたしの親友」と、私のことを第三者に紹介してもらったこと。

「わたし、親友なんだ」と驚きと喜びで胸がいっぱいになった。
そう、本当はわたしがたくさんの人からの愛情を受け取れていないだけだった。

サークルにも入るが、とにかくお金がかかりすぎて払いきれず、練習があったのでアルバイトも思うようにできず、八方塞がりになった。

アルバイトをしていると、練習もままならなくて、そんな引け目ばかりの中で築いていく人間関係も辛くて、最終的には社会人オーケストラに入ることを理由に、サークルをやめることになった。お金がないなんて誰にも言えなかった。

社会人オケでは、ヴィオラパートの人数が少なく、責任が重くて辛いものの、参加することで喜ばれるので、そこに居場所を感じて頑張って参加していた。
 
曲が出来上がる瞬間はとても楽しくて、楽器の響きも好きだった。
素敵な人にもたくさん出会って、年上の方々に無条件に可愛がってもらうという経験もして新鮮だしありがたかった。
 
ただ、たくさんの人が集まるため、私と離れたところで仲違いもあって人間関係は非常にめんどくさいと思っていた。
  
弁護士を目指すほど志もなく、安定した職に就くためには公務員試験を受けるものと、なんとなく思っていたこともあり、大学2年生の頃から公務員試験のための予備校に通い始める。
 
大学、予備校、アルバイト、社会人オケの掛け持ちでまったく余白がないスケジュール帳。

家庭教師、ファミレス、カフェ、趣味を生かしてのバイオリン専門店でのアルバイト。
アルバイトはどれも楽しかったが、バイオリン専門店でのアルバイトは特に楽しかった。非常にマニアックな商品も扱うため、接客をすればするほど自分の無知に気づき、必死で勉強した。

「鹿沼さんから買いたい」というお客さんが増え、時に数百万の商品も売れるようになり、やりがいも感じていたが、自分の想い通りにならない「商品」や、お店側が売りたい商品と自分が売りたい商品の乖離に苦しんだ。

その後、「そもそも公務員になりたいのか?」という問いとともに、就職活動もやってみる。

両親には、大学に入る際「公務員になって地元を元気にするために戻ってくる」と話していたが、予備校に通いながら、いざ調べてみると、はっきり言って、わたしは「公務員」の仕事にまったく希望が持てなくなった。
 
その後、刺激的な説明会もあり、なんとなく楽しそうな会社を受けていく。
 
その頃景気も良かった「人材系」に絞るようになった。
なぜなら、「商品」を「自分」で考えたり提案したりできることに魅力を感じたからだ。

たまたま知った教育と採用関係で会社の面接、採用プレゼンを通過し早々に内定をもらう。

そう、あの時のプレゼンでわたしは、「出る杭になりたい」と震える声を隠しながら話していた。
社長や役員のおじさまたちが、「出すぎた杭は打てないからねぇ」と笑っていた。

 つづく